北朝鮮の旅2 パスポートを取り上げられる

北朝鮮の旅

韓国人・朝鮮人・中国人との食事会

部屋に入り一息入れていると電話が入り「皆で食事に行きませんか」と誘いがあった。降りしきる雪の中、先程のマイクロバスで海鮮料理店へ繰りこんだ。

円卓テーブルに着席したのは7名。空港で知り合った平壌行きの3人と、後でわかったが他の3人は地元の会社の人間。ひとりは十数年在日経験のある韓国人で繊維関係の現地合弁会社の社長。他の2人はその会社の社員で朝鮮系中国人。

何となく緊張した雰囲気のなか、くだんの社長が「袖すりあうも多生の縁といいます。今宵は楽しくやりましょう」と日本語で挨拶をしてくれた。

ここで問題となるのは言葉。中国語、韓国語、日本語のどれにするかということだった。どうやら皆さん、私以外複数の言葉が話せるようだ。状況を察知した社長から「日本語に統一しましょう」と提案があり、その心づかいがとても嬉しかった。

今回、中国在住韓国人、在日朝鮮人、朝鮮系中国人そして日本人と、いささかユニークな組合せとなった。酒も入り話す内容も実に多岐に渡った。さらに北朝鮮では絶対禁句と思われる話題も数多くとび出し、これにはびっくりした。

最後には「すべてオフレコにし、ここだけの話としましょう」と笑い合うほど盛り上がった。現地の社長が「こんな機会は滅多ないことなので、ここの支払いは私が持ちます」と申し出があり、社長の厚意に甘えることにした。

「政治や体制さえ絡まなければ、お互い仲良く仕事や商売が可能かもしれない」と、この地域の将来像が垣間見られた感じがした。各自が簡単な自己紹介をしたものの名刺交換もなく、名前すら覚えていない間柄であったが、とても印象に残る楽しい夜となった。

極寒の機内

翌日は朝6時に起床。朝飯も食わずに空港へ直行した。

雪はやんだが高速道路は依然アイスバーン状態で危険極まりない。タクシーの運転手も雪でハンドルがとられ往生していたが、やっとのことで空港へ到着。

前日、やむなく空港で一夜を明かした気の毒な十数名の乗客と合流した。

そして、そこで待つことさらに6時間。「最悪、飛行機が飛べずこれで北朝鮮へ入国できなければ縁がなかったと諦めるしかない」と覚悟を決めた頃ようやく空港が再開した。

ここでほっとしたのも束の間、今度は離陸した高麗航空の機内の暖房が全くきかず、まるで冷凍庫にでも入っているような有様。あまりの寒さで体がガタガタ震えだし、歯を食いしばりながらの1時間だった。

後にも先にもこんな恐ろしいフライトは初めての体験だった。気力も体力もかなり消耗したが、何とか平壌空港へ着陸。思いもよらぬ難儀な旅立ちとなった。

空港へ到着

一日遅れで、今はもう珍しいプロペラ機でようやく平壌の国際空港に到着した。

拉致被害者の5人の家族が帰国する際、日本のテレビが繰り返し放映した例の空港だ。施設は老朽化しており、日本の地方空港並みの大きさでとても国際空港と呼べるものではない。

タラップを降りると、外気温は零下10度の世界。防寒対策も心細く心配になってくる。寒さと独特の雰囲気で旅慣れた私も少々緊張気味となってきた。

続く入国審査で、のっけから審査官の矢継ぎ早の質問を浴びた。何のことか意味が分からず戸惑っていると、後列の日本語を話せる朝鮮籍の人が通訳を買ってくれた。

ことは簡単で「こんな寒い時期に個人で観光なのか」と単に入国目的を確認しただけのことだった。

空港ロビーで出迎えてくれたのは、通訳と指導員(別名、監視員と呼ばれている)そして運転手の3名。これ以後どこへいくのも私を含めたこの4人組のワンセットで行動することになる。

パスポートを取り上げられる

空港を離れて間もなく、指導員から、「貴方のパスポートを預かります。帰国するまで我々が責任を持って管理します」といわれ、これには若干の不安と抵抗があった。

しかし考えてみれば日本と北朝鮮とは未だ正式な国交がなく、従って両国間には大使館も領事館もない。もし私が旅の途中でパスポートを紛失でもしたら大変なことになる。

再発給は北朝鮮では出来ない。領事館のある中国経由となるので、随分と手間がかかる。「責任を持つ」と言われれば他に選択肢はなく、素直に従うことにした。

1943年両国生まれ。両国高校卒業。早稲田大学在学中に通訳ガイド試験合格。当時流行りの学園紛争にハマり大学を中退。通訳ガイドを経て、ラケットメーカーやライター会社の社員として主に海外業務に携わる。サラリーマン時代やその後の自営業の合間に訪れた国は40ヶ国以上。
趣味は映画鑑賞・ぶらり街歩き・読書

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北朝鮮の旅旅行記
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