遺跡巡り~ガラリア湖
昨夜の小雨も止み、晴れ渡った気持のよい朝を迎えた。
今日は終日ドライブで、途中幾つかの遺跡を巡りガリラヤ湖を目指す強行日程。どうやら長い一日となりそうだ。慌ただしい出発前、ホテルの土産物店に立ち寄った。
その昔、クレオパトラも所望したといわれる死海の水や泥で作った基礎化粧品、その草分け的存在「AHAVA」を妹に、アトピーに悩む次男にはミネラル豊富な海藻石鹸をそれぞれに買い求めた。
マサダ要塞
今日の最初の見どころはマサダ国立公園。
死海沿いに突如として孤立した大きな岩山が現れた。山頂が平らで高さも400mあり、まさに天然の要塞だ。赤茶けた岩肌は何者も寄せつけない威圧感で迫ってくる。
マサダは、紀元前42年にヘロデ大王が建造した崖の上の要塞。
西暦70年にエルサレムがローマ軍の手に落ちたとき生き残ったユダヤ人たちは、ここに3年にわたって籠城していた。
激しい抵抗に手を焼き、やっとのことで攻め入ったローマ軍がみたものは960名全員が刺し違えて自決した姿だった。
この歴史的事件は、歴史書「ユダヤ戦記」に詳しく記されている。後年マサダの発掘のきっかけとなったのも、この本の記述によるところが大きいといわれる。
この時をもって「ユダヤ人の2000年にわたる離散の歴史」が始まることになった。
ユダヤ人は全滅を再び繰り返さないという決意をもって「ノーモア、マサダ」というスローガンを語り継いできた。
今でもイスラエル軍の入隊宣誓式の最後は「マサダは2度と陥落させない」という言葉で締めくくられているという。まさにマサダはユダヤ民族結束の象徴といえるだろう。
切り立った崖をロープウェイで登り切ると、そこには巨大な貯水槽、食糧庫や宮殿等の跡地が点在しており当時の生活様式が偲ばれる。
山頂からの眺望はまさに天下無双。
眼下に死海が一望でき、目の前に広がる美しい景色に思わず息を飲む。かつてここが悲劇の舞台であったことを思うと、この絶景には一層、感慨深いものがあった。
死海の周囲は赤い岩肌の露出した砂漠地帯だが、ところどころにオアシスが見られ一服の清涼剤となっている。たわわに実をつけたナツメヤシが生い茂り、色とりどりのブーゲンビリアの花が咲いている。とても癒される風景だ。
その後、死海のもう一つの古代遺跡「クムラン」にむかった。1947年、近くの岩場の洞窟で一人の羊飼の少年が壺に入った巻物を発見した。
この巻物が有名な「死海写本」といわれ、紀元前100年頃に写筆したヘブライ語の旧約聖書だった。
これは、「ツタンカーメンの墓」の発掘とともに20世紀最大の考古学的発見と言われている。この地の写本や出土品は後にエルサレムの「死海写本館」で見学することができた。
クムランから死海を隔て、遠くヨルダン領内の対岸に「ネポ山」の姿が薄らと見えた。「十戒」で有名なモーセが40年間砂漠をさまよったあげく「約束の地・カナン(パレスチナ)」を目前にして世を去った場所だ。
バスが死海に沿って北上中、S氏から古代イスラエルの歴史が滔々と語られた。登場する人物、場所は我々が学校で習った世界史の舞台そのもので、大変興味深いものだった。
今日のユダヤ人の祖先である古代イスラエルの民は、アブラハムを始祖とる。
聖書によればアブラハムはメソポタミアで生まれ育ったが、あるとき神の言葉を聞いて約束の地カナンへと旅立った。
紀元前2000年頃の出来事と推測される。
アブラハムから何代も後になるとイスラエルの情勢が激変し、子孫たちはエジプトで奴隷の境遇に落とされ過酷な労働を課せられた。
そんな彼等の解放者として現れたのがモーセだ。モーセの指導のもと前13世紀ごろ「出エジプト」がおこなわれる。そのときのエジプトのファラオは「ラムセス2世」か「ツタンカーメン」とする説もある。
長い旅のあとモーセは「シナイ山」で十戒を授けられた。十戒はイスラエルの民が神の民として生きていくうえで、最低限守らねばならない人生の指針だった。
「モーセの十戒」を遵守することにより、かれらは「乳と蜜の流れる地」を約束されたと「旧約聖書」の「出エジプト記」に書かれている。
エジプトを脱出した一行は40年ものあいだ荒野をさまようが、それは飢餓との闘いでもあった。ヨルダンのペトラ近くに「モーセの泉」がある。
モーセは、人々から不平の声があがるたびに、地から水を湧かせるなどの奇跡をおこした。何か日本の弘法大師の伝説と通じるものがあるようだ。