開城観光
平壌から2時間ほどのドライブで開城に到着。
今なお高麗時代500年の歴史が息づく古都で、歴史的な仏教寺院や遺跡が多く毎年大勢の観光客が訪れているという。
文化の香り漂う街で、歴史的にも平壌、ソウルと並ぶ「三都」と呼ばれていたことがある。また高麗人参の産地としても有名だ。
ここには「パンサンギ」という宮廷料理がある。開城で一番大きいレストラン「統一閣」で昼食、地元名物の宮廷料理を賞味した。テーブル一杯に小皿が並び、その数10を超えていた。
揃えられる1組の料理数は、ご飯と汁を除いて5皿から11皿までの奇数で並べるのが正式とのこと。ナムルや煮物、いろいろな種類のキムチなどが一皿ごとに盛られ、見た目にも大変美しい。
日本でいえば「大名膳」というところか。どれも少量でおいしかったのだが、皿の枚数が多いので全部はとても食べ切れない。私は貧乏性なので「この国は食糧難なのに、こんな御馳走を食べ残していいのか」と若干心苦しくなった。
午後は開城の観光スポット巡り。数か所の由緒ある寺院に立ち寄った。
私は朝鮮半島の歴史にはまったく疎く、訪れた寺院の歴史的な意義や価値がよく分からない。どれも同じように見えてしまうのは残念だった。
ただどの寺にも、飛び切りの美人ガイドが配属されており、観光客の人気の的になっていたのがとても印象的だった。
板門店と境界線
いよいよ今回の旅のハイライト、「板門店」に向かう。板門店は、朝鮮戦争の停戦交渉が行われてから歴史的な地となっている。停戦交渉の場や調印所当時のまま保存されており、その先に共同警備区域がある。
1950年の朝鮮戦争は、北朝鮮が武力による半島統一を狙い韓国に侵入したことから勃発した。一方北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼び、アメリカと韓国が謀って起こしたとされている。
北朝鮮は一旦、半島全部を制圧したものの、アメリカの参戦によって中国国境付近まで後退する。しかし今度は中国軍の参戦により、半島のほぼ中央付近で膠着状態となり1953年ついに停戦。
北緯38度線沿いに240キロに及ぶ軍事境界線が引かれ、半島が分断された。
3年にも及ぶ戦闘によって半島全体が戦場となり130万人もの命が奪われる悲惨な幕切れだった。
その停戦協定が結ばれた場所が「板門店」だ。
今でも南北間の会議が行われ、北朝鮮、韓国双方が折衝の窓口としている重要な場所となっている。
板門店は開城から意外に近く、わずか8キロ。車で15分の距離。板門店に向かう道路はコンクリートで固められ、戦争に備えて常に完璧な状態で整備されているという。
途中「ソウルまで70km」と書かれた立て看板があった。ここから平壌まではおよそ200kmなので、ソウルのほうがずっと近い。この緊張した地域で「これが何を意味しているのか」とても印象的な看板であった。
やがて幾重にもフェンスに囲まれた「非武装地帯(DMZ)」に入る。
偶発的な衝突を避けるため、境界線から南北それぞれ2キロ幅のDMZが設けてあり、この地域には戦車とかロケット砲とかは配置してはいけないことになっている。しかしリスクを承知の上で許可さえとれば、DMZ内でも問題なく農作業が出来るといわれている。
かつての停戦調印場で簡単なブリーフィングを受けた後、テレビで見慣れた北朝鮮側の管理棟「板門閣」に到着した。
この真下は境界線だ。
両国は今なお休戦状態なので、国境とは呼ばず軍事境界線と呼んでいる。境界線の上には青い屋根が特徴の3棟の小さな会談場があり、双方の軍が共同で警備することになっている。
南北間で会議をするときや停戦委員会を開くとき以外、どちらか一方の訪問客がいる場合は、もう一方は使用しないのだそうだ。
会談場にはテーブルが置かれ、テーブルの真ん中にあるマイクのコードが、南北の境界を表している。
窓に人の気配を感じたので、そちらを見ると韓国軍兵士が「どんな奴が来ているのか」といった顔で覗き込んでいた。何の故意もなくただの好奇心だったに違いない。
私は数年前、韓国に滞在中、この最前線を売り物にした「非武装地帯観光ツアー」にソウルから参加して、この会談場を韓国側から訪問していた。
同じ部屋に南北両側から入ったことになり感慨深いものがあった。
お互い睨み合う場所なのに北朝鮮側は意外とのんびりムード。
韓国側は緊張感が漂っているように感じた。
実際は、南北の両側から100万以上の銃口が向きあい、DMZでは20万個の地雷が埋められている緊張感漂う場所なのだ。
朝鮮戦争のさなか200万人の難民が生まれ、南北に引き裂かれた家族は双方合わせ1000万人にも上るといわれている。次の戦争では300万人以上の北朝鮮難民が予想されている。
その時の日本の対応は一体どうなるのだろうか、考えただけでも空恐ろしい。