北朝鮮の旅1 空港でのトラブル

北朝鮮の旅

個人旅行を思い立つ

2004年の5月に小泉首相が2度目の訪朝をした。拉致問題の政府の対応を巡り世論も賛否両論。非常に特殊でしたたかな国との交渉は中々骨が折れるもの。その近くて遠い「将軍様」の国へ2005年2月の冬、個人旅行をしてきた。

旅行前には、「危なくないのか、拉致されたらどうするのか」と友人に随分と心配された。だがその懸念は全くなく、旅行に関してだけ言えばアメリカよりずっと安全だといえる。

当時、北朝鮮への渡航は個人・団体のどちらでも目的が観光であれば基本的に誰でも可能だった。

だが、報道関係者や公安関係者の入国は例外を除いて、ほとんど許可されなかったようだ。入国許可は、日本にある北朝鮮系旅行会社を通じて申請。取得までに約1か月かかった。

当時、年間900名ほどの日本人が渡航していたという。一般的に許可される平均的な滞在日数は5日間、最大で1週間。観光コースと日程はあらかじめ決められていて自由行動はできない。

標準的なコースとして、「初日に平壌市内とその郊外の観光。翌日は日帰りで平壌から150キロ北にある風光明媚な妙香山を周遊。

次に平壌から南へ200キロ下り、朝鮮人参で有名な開城を訪問。更には韓国との国境最前線、板門店の見学」が設定されている。

かつての仕事との関係

私は、かつて仕事を通じて北朝鮮との関係が若干あった。30代の頃に働いていた会社が韓国でテニスラケットの工場を稼働していた。

その工場の裏山の向こう側は「38度線」で北朝鮮との境界線だった。工場へ向かう途中で何回も厳しい検問を受けた記憶があり、今でもその時の緊張感が甦ってくる。

さらに40代の頃、使い捨てライターの会社の貿易部に在籍。年に一度、北朝鮮系商社を通じて「東海ライター」の注文があった。数量はコンテナー単位で約60万個。売上にして一千万円ぐらいだった。

当時の北朝鮮ではライターは貴重品で、使い捨てのライターのガスや発火石が切れると裏通りにいる直し屋が分解、ガスを入れて石を詰めていた。購入したライターは主に下級幹部や兵士に配布されていたようだ。

因みに「東海ライター」の人気の秘密は名前にもあるようだ。朝鮮半島の人々は昔から日本海を「東海(トンヘ)」と呼んでおり、今でも地図上の「JAPAN SEA」の名称を変更するよう国際機関に強く働きかけている。彼等にとっては、「東海」はとても愛着のある名称なのだ。

空港でのトラブル

出発前に期するところがあり、近所の水天宮に出掛けて旅の安全を祈願した。

にもかかわらず、北朝鮮へ入る前にトラブルに遭遇。一時は旅行を諦めかけたことがあった。皮肉にもこの出来事の顛末が今回の旅で一番印象に残り、忘れ難い思い出でとなっている。

平壌へは日本からの直行便はない。

一旦空路で中国に入り北朝鮮の高麗航空へ乗り換える。出発当日、中国東北部や朝鮮半島までがスッポリ入るほどの大寒波が襲来。この地域一帯が巨大な冷凍庫と化していた。

機体が瀋陽(昔の奉天)空港で着陸態勢にはいる。窓の外には薄く雪化粧した滑走路が見える。ガタガタと不快な揺れがあったが、機体は何とかエプロンまで辿り着く。先行きが案じられる強硬な着陸であった。

やがて滑走路の雪が凍りはじめ、空港の離着陸はすべてストップされたとの情報。数百名の乗客が空港内に缶詰となる事態となった。

このような状況では、各航空会社が責任をもってホテルとバスの手配をするのが通例だ。実際、大手航空会社は手際よく乗客を市内のホテルへ送っていた。何の情報も入ってこない私は、乗り換えの高麗航空のカウンター前で、ただウロウロするばかり。

そのうち係員が「今回のことは初めての経験でどうしていいか分らない。手配する予算もないので各自でホテルを探し、費用の負担もお願いたい」と実に素っ気ない。

他の乗客も「期待はしていないし、無い物ねだりしても仕方がない」と割とクールな反応だった。私も同じように腹を括るしかなかった。

やがて「積雪のため市内に通じる複数の高速道路はすべて閉鎖された」との情報が入ってきた。いよいよ事態は切迫。

「このままでは暖房も保証されない空港で一夜を過ごすのか」と不安がよぎる。

救いの神が現れる

そのうちに成田から一緒だった金日成バッチを付けた3人連れの在日朝鮮人の人たちと知り合いになった。

その仲間のひとりが、必死になって携帯でどこかと連絡を取りあっている。

ようやく話が付いたようで「我々は、知人のマイクロバスで市内のホテルに行くことになった。同行のよしみで如何ですか」との誘いがあった。この際、渡りに船と即座に同意した。

市内へは高速道路が閉鎖されたため未舗装の一般道を利用。

だが、これが途方もないガタガタの悪路で雪のため途中で何度もスリップ。横転寸前の場面もあり、肝を冷やした。

やっとのことで着いたところが瀋陽市内の超豪華なホテル。

ロビーの雰囲気から1泊数百ドルのホテルと想像され、懐具合が心配になった。

ほどなくして迎えに来た地元の人が、フロントで何やら凄い迫力で交渉を始めた。やがて至極満足顔で「特別に1人1泊5000円程度で了解を得た」と説明を受け、その熱意と説得力に私も率直に感謝の意を伝えた。

1943年両国生まれ。両国高校卒業。早稲田大学在学中に通訳ガイド試験合格。当時流行りの学園紛争にハマり大学を中退。通訳ガイドを経て、ラケットメーカーやライター会社の社員として主に海外業務に携わる。サラリーマン時代やその後の自営業の合間に訪れた国は40ヶ国以上。
趣味は映画鑑賞・ぶらり街歩き・読書

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北朝鮮の旅旅行記
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