イスラエルの旅
「シャローム、シャローム」と大きな声が空港ロビーで響き、現地ガイドのS氏の出迎えを受けた。
この言葉はヘブライ語で「平和」を意味する言葉だ。
こんにちは、さようならという挨拶もこの言葉で交わされる。
イスラエル3000年の歴史は戦いの繰り返しだった。パレスチナ問題で苦悩するこの国にとって、この言葉の意味が現実のものとなるよう心から願ってやまない。
日本からイスラエルへの直行便はない。ウズベキスタンのタシュケントで乗り継ぎ、ここベングリオン空港に到着したのは飛び立ってから16時間後。イスラエルは、日本にとってまだまだ遠い国のようだ。
今回「古代遺跡と聖地、死海を巡る魅惑の国」の宣伝文句に惹かれ、総勢9名の団体に紛れ込んだ。
ところが旅の仲間は全員が敬虔なクリスチャンで、数名の牧師さんも参加しており文字通り聖地巡礼の旅となった。
親の代からの浄土真宗だが、形式仏教徒の私は参加者と馴染めるかと心配したが、まったくの杞憂であった。皆さんとても気さくで、道中大いに語らい親交を深め、単なる観光旅行では味わえない印象深い旅となった。
ようやくイスラエルを訪れることができたが、実現にはいろいろと紆余曲折があった。
1995年の夏、私が51歳の時、最愛の妻を亡くしている。
当時のテレビ番組で、ある著名な評論家のひと言が強く心に残っていた。
「50代で男やもめとなると、その後の平均余命はせいぜい10年か15年くらいだ」。それなら限りある残りの人生を悔いなく送るしかないと考え思い立ったのは、今まで果たせなかった夢を実現すること。
それは私にとって「旅の究極」となる、北朝鮮、イスラエル、キューバ、南アフリカ、ブラジル等12カ国をこの間に訪れることだった。とりわけイスラエルは治安の面でハードルが一番高い国だった。
このころ中東ではパレスチナとイスラエルの紛争、アメリカによるイラク戦争、爆弾テロの頻発など緊迫した状態が続出。
日本の外務省のホームページは、イスラエル全土の危険情報として危険度3(渡航延期勧告)や危険度4(家族等退避勧告)を発出していた。
キブツ(農業共同体)に参加の若者やクリスチャン作家、曽野綾子さんが身体障害のある方々を伴っての勇気ある聖地巡礼の旅以外、一般の旅行はほとんど不可能と思われていた。
旅行を申し込んでから1年半後に実現
その後、現地の状況が好転したのに伴い、長い間改定されなかった「地球の歩き方のイスラエル編」が2004年にようやく書店に現われ始めた。
翌年、小泉元首相のイスラエル訪問が予定されていたが、当時のイスラエルの首相、シャロン氏が突然病に倒れ訪問は中止となっていた。
この頃から中近東専門の旅行各社は、安全性が高まったとしてイスラエル旅行の企画がネット上に現われはじめた。私は改善されたとは言え、当時の治安状況ではひとり旅は無理だが、団体旅行では可能と判断。
チャンス到来と何社か申し込んで見たものの、何れも最少催行の人数にいたらず、2006年の今回の旅が現実するまで1年半待たなければならなかった。
ツアーの始まり
到着後、早朝にもかかわらず、いきなりツアーが始まった。東京は雪が降っていたが鹿児島と同緯度のイスラエルは、冬とはいえ日本の春先の陽気。
雨上がりの空気が生暖かく感じた。バスは平原や荒れ地をひた走り、一路今宵の宿泊地「死海」へ向かう。死海の後はマサダの要塞、ヨルダン川、ガリラヤ湖、地中海沿岸、エルサレム、そして最後はテルアビブと続く。これらの見どころを8日間で消化する強行日程の始まりである。
途中「ベエル・シュバ」の遺跡に立ち寄った。
この地域の歴史は古く、紀元前4000年にも遡る。アブラハム、イサク、ヤコブのユダヤ民族の父祖たちも、3代にわたって住んだことが「旧約聖書」に記されている。
現在は雨の少ない荒れ地であるが、最初のイスラエル王国時代は「乳と蜜の国」といわれ、豊潤な地域であったと考えられている。遺跡の脇に観光用と思われるが、ひよこ豆の木と2本の大きな御柳(ぎょりゅう)の木が植えられていた。
その前に立ち、私を除く全員が旧約聖書のポケット版を取り出し「アブラハムの言」を読み合わせしていた。この2本の木のことが書かれていて確認をしたという。私もこの光景を見てなぜか敬虔な気持ちとなり、違和感なく雰囲気に溶け込んでいた。
これ以後、この聖書の読み合わせは旧約、新約を問わず聖書にまつわる聖地や遺跡のほとんど全てに行われていた。宗教心の強い人たちにとって聖書に書かれている場所を訪れ、自分の目で確認できることは無上の喜びとされる。
仏教徒の私としてもこの心境に十分共感できた。古代の遺跡が積み上がった丘にのぼると、遥か彼方まで続く平原とその先のネゲブ砂漠が遠望できた。